本日、9月1日、エディション・エフは1周年を迎えました。
亀より遅い出版活動ですが、道草食いながら昼寝しながら、
ときどき下手な鼻歌なんぞも歌いながら、
あるいはダンスフロアでステップ踏み損ねて転びそうになりながら、
ひとりワイングラスを傾けながら、
好きな本づくりにいそしみます。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
9月といえば、私は高橋三千綱の『九月の空』が大好きです。
若い頃に読み、その後も幾度となく繰り返し読み続けている幾つかの本のひとつです。
若い頃読んでガツンときたモノってそうやすやすと忘れられませんよね。高橋三千綱の『九月の空』と『カムバック』、これだけは我が家の床が本の重さで抜けそうになっても絶対手離さないと決めてます。(いや、この2冊のほかにもたくさんあるんですが。笑)
ごく幼い頃は絵ばかり描いていて、いつかそれに言葉をあしらって遊びました。当時少し流行った「イラストポエム」少女だったのです。そのせいか、古い詩集がたくさんあるんですよ。
高村光太郎や室尾犀星、島崎藤村、もちろん中原中也も。
やなせたかしのイラスト詩集も。
ゲーテとかバイロンとか、アポリネールといった「洋物」も。
幼かった当時、いったい何を思ってこれらの詩を読んでいたのだろうと思います。
当たり前のことですが、ほとんどわかっていなかった。字面の美しさに惹かれていただけで。
(しかし、字面の美しさというのは非常に大切なのですよ。)
いま読み返すと、そこかしこにずしんと重いおもりがぶら下っているような、そんな言葉たちがたしかにあるのです。今ここでもう一度読まれるために、風に吹かれず水にも流されず踏ん張ってきたような言葉たちが。
読み継がれる詩とは、そうしたおもりを、同時代の読み手には悟られないように、隠し持っているものです。おもりをおもりとは気づかないまま、しかし何かしら手応えのような、伝言のようなものをそこに感じて、人は語り継いでいくのです。
言葉や文章はもちろんのこと、先人のつくったものを受け継ぐ、引き継ぐ、語り継ぐという行いは尊く、貴ぶべきことでありつつ、じつはしぜんに、肩に力入れずになされるべきこと。
継承はとても重要なことですが、頭でっかちになりすぎては却って伝わりません。
「おもり」を重いと感じないでバトンタッチのように渡していければいいですね。
いまさまざまな局面で意志決定をする人たちはどうも「古くなったらとっとと叩き壊す」ことがお好きなようですが、そんな人たちはきっと何万倍にも重くなった「おもり」に呪われるに違いないと思ったりするわけです。
エディション・エフは2年目も、のらりくらりと、でもなおいっそう、張り切って本をつくってまいります。
よろしくお願い申し上げます。